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全体化された漫画スタイル:独立した個としての表現は可能か?

全体化された漫画スタイル:独立した個としての表現は可能か?

作者プロフィール:
フランス・アングレームでマンガ創作と読み方の修行をし、ベルギー・ブリュッセルでマンガ出版について学ぶ。フランスのオルタナ漫画版元 Le Lézard Noir 社に勤めたことも。マンガで頭が一杯のまま数十年が過ぎ、今に至る。ヨーロッパ在住、心はアジア。IGをのんびり運営中:@cases.clubd、交流大歓迎。

イラストは阿尼黙の『小輓』/大塊文化© 2019 Animo Chen

「「他の台湾人と同じように、幼い頃から私も日本文化からは様々な面で影響を受けてきました。漫画を読むのも描くのも好きだったし、大きくなってからは東洋文学、推理小説を読みました。ですが私は「スタイル」という言葉で誰かの創作を定義したくはありません。この世界では人に対してレッテルを張ることで他者を区別します。私自身もその影響を受けていることを否定はしません。ですが、そんなことは極力避けられたらいいなと思っています。「絵柄」を通じて「台湾の歴史」を述べてみたいとは思ってはいないし、またその可能性をも考えたことはありません。」——高妍、2019年『Funker says ファンク宣言』インタビュー、

「以前、困ったことがあります。先輩が私の描く絵を見て日本漫画みたいだって言うんです。なんだか責められているような気持ちになりました。でも、私の作品を日本へ持って行き他の漫画と一緒に並べてみたら、誰も私の作品を日本漫画だとは思わないはずです。それどころか見たらすぐに台湾の漫画だって言われるんです。業界に入った時、この問題にはよく悩まされました。私達のことは誰にも見えてないのかな、とも思い悩みました。」——張季雅、2018年『台湾漫画は死なない』インタビュー

台湾で私達が「漫画」を話題にする時、ともすれば台湾では日本商業マンガのマーケット占有率が高いせいもあり、白黒の線、トーンやスピード線のある絵柄を思い浮かべる。また、ほかの国の漫画があまり輸入されないため、私達がこの「総括化」されたスタイルをその国全体のスタイルと結びつけがちである。では、スタイルを語る時、国家文化の視点を使って、創作者の特色を定義してもよいのだろうか?

この問題については引用した高妍の発言から、創作者の立場としての答えが垣間見えてくる。張季雅の語る困惑にも「スタイル」と一つの国の漫画を結びつける普遍性が聞こえてくる。ヨーロッパで「manga」と呼ばれるのは日本漫画のことで「comic」と呼ばれるアメリカン・コミックとは区別される。だが、二つとも「バンド・デシネ」という、ある種の連続して併置された絵を指す。それぞれ地域ごとに漫画のスタイルは異なっていて、もとから存在する名称を使えば他と区別するために便利だったからかもしれないが、それ以外の小さな国の漫画文化の場合、大国の「全体的スタイル」と明らかに異なる部分を探し出し、自分自身の特殊性を語らねばならない。(註1)

特殊性を維持するには、創作者や関係業者にとって、絵柄というものが最初に直面すべきポイントとなる(註2)。なぜなら画面は読者が最初にその作品を認識するための大事な鍵となるからだ。そして絵柄、更にはスタイルまでを踏み込んで論じるとなると、その概念はさらに複雑なものとなる。なぜなら、それは表現方法というものを代表するからだ。漫画にとって、内容を伝達する手段であり、ビジュアル的表現としての選択を含むものなのだ。つまり、一人の作者の「スタイル」は作品の「全て」であり、そしてそれは作者(およびその関係者)が「どのように」この作品の「それぞれのポイント」を作り出すかにかかっているからだ。

よって、このことから一つの国のスタイルというものがどのように生み出されるかが説明できよう。その国の産業ですでに普遍的となっている生産過程があるならば、工業化によって生み出される作品は似たようなイメージで作り出されていく。読者が漫画に持つイメージは、その国全体の雰囲気と結びついていくのだ。日本漫画、アメリカン・コミックには表現するための具体的な文法があるので識別できる。(註3)それに比べると、欧州漫画の中身は多様化されているイメージがある。一つの作品を生み出すためには作者自身による創作の方向性だけでなく、編集方針、メディアキャリアの制限、読者の参加などが影響しあって、一つの全体的なスタイルとなるのだ(註4)。

オランダの作者Joost Swarteによる作品。欧州漫画は製作される過程で、印刷技術のため使う色彩に制限があることを作品で解説している。(撮影:吳平稑)

スタイルのリソースを考える際、台湾漫画は日本漫画のシステムの影響を受けていると思っている読者がいるのは分からなくもない。コマ割り・ペン入れ・スクリーントーンといった手法や画材の使い方もそうだし、一部の台湾漫画の作者はつけペンやその応用、ページ数の制限といった日本漫画のスタイルを参考にしている。物理的な条件(イラスト道具や印刷出版のスタイル)も日本の産業と似ており、作品に盛り込める変化が少ないため自身の特殊性が弱まってしまう。それぞれの段階において無限に存在する可能性と組み合わせを創作者と関係者が選択していく。編集や印刷コストの制限もあるなかで、作者はスタイル、タッチ、ライティング、背景、物語など、それぞれの段階において自己のスタイルを作り出している。また、例えば、望月峯太郎や松本大洋らのように作品ごとに異なるスタイルを作り出す作者もいる。

日本の漫画家、松本大洋はトーンの代わりに墨を用いることで、異なるビジュアル効果を生み出している。『竹光侍』松本大洋・永福一成/大塊文化 TAKEMITSUZAMURAI © 2007 Taiyou MATSUMOTO, Issei EIFUKU / SHOGAKUKAN

創作の手法が一つ増えるだけで、他者との区別がつきやすくなるのが分かる。テーマごとに新たなビジュアルを生み出してみたり、画材や工程、または印刷方法を変化させることで違ったイメージを生み出している。例えば、香港の漫画家・柳廣成のスタイルがあげられる。『ワンピース』のように主流の日本漫画の影響を強く受けた彼は、インクの代わりに鉛筆でスケッチすることで独特の新たなビジュアルスタイルを作り上げた。創作者と関係者たちは作品に命を吹き込むために努力することで、作品には自分のスタイルが生み出されていく。スタイルというのは「創作者たちの意志」なのだ(註5)。

そういうことから、ある国に対し全体的なスタイルを探し出そうとしても徒労に終わるだろう。人それぞれ創作スタイルは異なるし、道具や製作工程が似ていたとしても、それぞれの過程において個性が組み込まれるからだ。台湾においてスタイルが一致する部分を探し出そうとすることは、更なる無駄ともいえることだ。ある国家において漫画スタイルを生み出す要素が何かを理解しようとしたときその背後にあるものは、自身が持つ特殊性なだけではない。自分自身のスタイルを把握したい台湾にとっては産業チェーンの成熟への憧れでもあるからだ。読者の態度を形容する張季雅の言葉からもよく理解できるだろう。一部の読者が台湾漫画を嫌っているのは産業経済効果が成熟していない状況下において生み出されたある種の普遍的「スタイル」であるからだ。もし産業が成熟し他国の出版と物理的状況が似てきたら、読者は容易にそれらと比較をし、自己判断ができるようになるだろう。(註6)

台湾では、実物を参照する写実的な傾向や、絵本や挿絵風(白黒インクによるイラスト作品とは異なる)といった方向に向かって発展していたのは根拠がないわけではないことだ。前者は描かれる対象に対して個人の経験の特殊性や画力が直接、現れる。後者は画材の上で異なる創作方法をとって、ほかの国の産業化された創作スタイルと区別できる。例えば、高妍の作品『間隙』は日本漫画のコマ割りを用いた白黒のラインアートであるけど、画面が写実的に描かれると、彼女自身や台湾人アイデンティティが、彼女の創作に向き合う姿勢から自然に生み出された。阿尼黙が描く日常をひび割れた質感で融合した作品『小輓』は、色彩が豊に積み重ねられている。ある意味「絵本」や「挿絵」といったイメージのある、画像に対する独自の見方を生み出した作品だ。

台湾の作者、高妍が『間隙』で用いた写実的タッチや斜め変形コマは日本漫画から取り入れたと言えよう。イラスト提供:作者提供
台湾のクリエーター、阿尼黙『小輓』はひび割れた質感に多彩な色使いを重ね、オリジナルなスタイルを作り出した。『小輓』阿尼黙/大塊文化© 2019 Animo Chen

つまり、スタイルとは各レイヤーにおいて影響を受けとったうえで生み出されるものなのだ。作者個人の表現だけでなく、出版活動に対する制限も影響されてくる。国や出版システム、作者個人の「スタイル」といった要素だけで、簡単にカテゴライズできるものではない。どの作品にもその作品にしかないメッセージが組み込まれており、作品自身が独立した個体であるからだ。アーティストが創作する上で考慮すべきは、どの方法を用いれば作品の全貌を上手く引き出せるかということだけだ。それさえあれば、その漫画作品はオリジナルの表現を備え得るであろう。

註1:漫画と国家文化は密接な関わりがある。欧州で発展した韓国漫画「manhwa」や、中国の連環画と漫画は「lianhuanhua」「manhua」といった名称で呼ばれているが、あまり議論に上ることはない。

註2:どこまでをナショナル・アイデンティティと呼ぶかに関わらず、創作活動はそのすべてを「超越」したもので、常にそのほかの可能性を探し出している。参考として、スコット・マクラウド著『マンガ学 マンガによるマンガのためのマンガ理論』があげられる。産業チェーンが成熟した国家において従業員はその職務を果たし、新たな作品やテーマを開発していく傾向がある。だが、スタイルが指す部分は、作者の習慣にも関わることだ。習慣と「超越」の概念はある部分、矛盾している。野心のある創作者は自分の習慣の中に閉じこもることはないからだ。

註3:アーティスト村上隆はアニメと漫画文化からかわいさを見つけアート作品として展示した。アメリカのポップ・アート・アーティストのロイ・リキテンスタインのように、アメリカン・コミックの色使いやドットの使い方を作品に応用し、製作されている。このような作品は漫画を連想させるが、漫画作品ではない。

註4:ヨーロッパ漫画が製作される過程において、過去にシナリオ・作画・ペン入れ・色塗といった分業スタイルをとっていたが、編集が介入するレベルは比較的少なかった。この二十年ほどで小・中型といった規模やジャンルの異なる漫画出版社が出てきたことから、却って産業全体においてそれぞれが多元的な創作モデルを作り出している。

註5:否定できないのは、作品は雑誌の編集方針において、全体的な作風を作り出すことがある。例えば、日本漫画では「ジャンプ系」「ガロ系」といった語彙で作品を形容することがある。またヨーロッパ漫画では、異なる雑誌によって生み出された「リーニュ・クレール派」「雑誌『Tintin』(タンタン)」や「アトム・スタイル派」「雑誌『Spirou』(スピルー)派」といった呼び方をする。

註6:日本漫画とだけ比べるのではない。台湾YouTuberの李翰は動画で、麥人杰が1995年に出版した『黒色大書』とフランク・ミラーが1984年に描いた『シン・シティ』の表現スタイルの類似性に驚いている。

原文出自:https://www.creative-comic.tw/special_topics/117