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リアリティの選択、台湾における漫画の写実的傾向

リアリティの選択、台湾における漫画の写実的傾向

作者プロフィール:
フランス・アングレームでマンガ創作と読み方の修行をし、ベルギー・ブリュッセルでマンガ出版について学ぶ。フランスのオルタナ漫画版元 Le Lézard Noir 社に勤めたことも。マンガで頭が一杯のまま数十年が過ぎ、今に至る。ヨーロッパ在住、心はアジア。IGをのんびり運営中:@cases.clubd、交流大歓迎。

イラスト:搖滾貓/カラー:CCC編集部/出典:『無名歌』第2巻、蓋亞文化

「写実的な漫画は一種のカテゴリーであり、その範囲は大きければ世界に至り、小さければ会社の部門、家庭、個人に分けられる。とすると、『無名歌』は写実的な漫画のカテゴリーに向かって描かれた『ある都市』の、『ある個人』を描いた漫画と言える。必要なデジャブなのだ。」——搖滾貓、2016年11月『LiHo Taiwan』インタビュー

写実とは台湾の創作者である搖滾貓にとって、あるひとつの、名もない参考物を描き上げることであった。参考とする「対象」は創作過程において不可欠なもので、作者は参考対象の形状を捕らえ、実践し、再現し自分の作品へと落とし込んでいく。この「参考物」は真実から来るものか、自分の記憶と混ざり合ったものか、全くの想像と無意識の産物にかかわらず、物体として漫画の中で変形し、創作者による解釈という翻訳が行われている。読者は参考物への認知、画像の表現によって、ある種「既存の現実的イメージ」を指摘できれば、ある作者の創作は「写実的」と言えるのだろうか?

今回テーマとしたいのは台湾漫画の画像にはある種の「写実的」傾向があるのか、ということだ。1980年代から1990年代にかけて、『歡樂漫畫半月刊』出身の漫画家たち、例えば、曾正忠、阿推、陳弘耀といったメンバーの描く画像はリアリティのある画風だ。人物の造形、景色や建物の構造には、どれも「デジャブ」がある。この写実的な様子をもっと精確に言えば、ある種の理想的な「模倣(mimesis)」と言えよう。人体の構造や立体感に理想を加えて変形させたある種の模倣である。阿推の描く人物の立体感の再現、陳弘耀の顔の構造や体格の細やかな描写。このようなイメージと本当の人類にはある種の差があるが、物体の認知上、輪郭を除けば、色彩や材質といったものがあり、モノクロ漫画では完璧にそれらの情報を伝えきることはできない。実際、リアルさを表現するには、交差する線や光線の明暗といった点を少しだけ多めに付け加えればよい。読者にとってのリアルさを引き立てるには、真実の景色は本来の純白ではないからだ。

陳弘耀が『大西遊』で描いた写実的な描写。資料提供:目色出版

偶然によって、台湾の漫画家たちは、細かな描写を写実的に描くスタイルをヨーロッパの「ヌーヴォー.レアリズム」の作者から受け継いだことかもしれない。例えば、Mœbiusらがあげられる(註1)。この写実主義の流れは1960年代前後に始まった。現代的な社会に呼応し、フォトリアリズムのタッチと絵画がミックスするスタイルで、例えば、Bazooka や Jean Teulé といった作家があげられる。興味深いのは、当時フランスの作者は写実的スタイルで探偵や逸話といったテーマを描いていたことだ。1990年代の台湾漫画家たちも似たような発展の軌跡をたどった。(例えば、阿推のSF漫画、曾正忠の軍事ジャンル、そのほかの漫画家による軽妙なギャグ漫画)。

Jean Teulé の『Bloody Mary』。写真を張り合わせたような表現。資料提供:Éditions FLBLB

台湾漫画で写実的傾向が生まれたのは、欧米への憧れから生れ出ただけではなく、マーケットでの差異を作りだすために意図したものだったかもしれない。写実的な作風は、テクニック的には難度があって高評価を得るのが容易だった。また、このスタイルを用いることでマーケットに出回っていた海賊版の日本漫画や過去のコピー版と区別化することができた。1990年代に写実的スタイルが形成される中、一部の業者と作者が欧米的傾向を引っ張り出したのは、日本漫画の圧倒的な蹂躙に抗議の意味をこめ、商業的な日本漫画に対抗する意図があった(註2)。またマーケットの意向にも納得できないためだった。だがこのような態度は日本漫画がイラストで多元的に表現する発展性を無視したものだった。実際、これより前の1950年代末から1970年代の日本漫画にはリアルさを求めた「劇画」スタイルがあった(註3)。一部の劇画作者のイラストは繊細さの欠けた作風だったが、池上遼一のような写実的な漫画家を生み出す誘い水となった。

1980年代前後、宮谷一彦とMœbiusの影響を受けた大友克洋は、きめ細かなイラストで表現の新時代を宣言した(註4)。当時台湾の漫画マーケットは海賊版で溢れており、日本漫画の写実的な絵柄をキャッチしていなかった。読者は日本漫画の片面だけを見知った状態だったのだ。だが、1990年代に一部の絵柄は写実的な日本漫画の作品の影響を喜んで迎え入れた(例えば、『スラムダンク』)。多くの台湾の読者にとって写実的というのは、正確な人体の比率やコントラスト処理の精度の高さ、といったものが漫画を評価する理由となった。以降、阮光民は、井上雄彦の画風と近い写実的な画風で心の温まる物語を描き出した。それに、常勝が改編した短編『九命人』は、浦沢直樹の味わいがある立体感のあるタッチだ。

今日にいたるまで、この土地には多くの関心が呼び起こされていて、ある種「真実の参照」といった写実性も更に顕著になっている。冒頭で引用した作者・搖滾貓は、その作品『無名歌』で精密な絵(景色や形状の模写)を描き、「参考対象」であるリアルさを追求した。作品中に出てくる台北の永康街の景色、キャラクターの絶望的な心の声は1990年代以降に作り上げられた想像中のリアルさから離れたもので、作者特有の個人的な経験を付け加えて描かれている。実際、ヨーロッパで「ヌーヴォー.レアリズム」が発展した後、Fabrice Neaudといった作者は自分の生活のリアルさを描き出し、歓迎された。日本でも浅野いにおが写真スタイルの背景画法を用いてキャラクターの個性を描き出した作品がある。リアルな作画は、読者を虚構の世界に引き込み、臨場感ある状況を体感させる。そして読者を虚構であるキャラクターのリアルさに浸らせるのだ(註6)。要するに、実際の風景の中に描き込まれたリアルな物語は、作者の個人的な経験として訴えるものがあるのだ。硬派な想像世界のリアルさが生み出す距離感と比べて、大きな親近感を生み出している。作品として、Adoor Yehが黒ペンで書きこむ細やかさだったり、左萱が『神之郷』で描いた大渓の景色などがあげられる。

Fabrice Neaud 『Journal』で描いた写実的イラスト。資料提供:Fabrice Neaud
Adoor Yeh 黒ペンで繊細に描き出した風景。資料提供:Adoor Yeh

造形上のリアルさには限界があるということも忘れてはならない。Thierry Groensteen が言うように「写実主義には常にある種の制限がある。ある種の意図を抑え込み、ある種の効果や絵の持つ力を阻害する。そのリスクは、自らをアカデミズムのスタイルに押し込め膠着させてしまうのだ」。すなわち、創作者が過度に比率の正確性にこだわったり、個人的な視点を取り除いてしまう。だが、そこに描き出される絵柄はすべて創作者自らの選択の結果だから、忠実性や想像の対象物なのかに関わらず、絵柄にはある種の個性が存在する(タッチの運用は独創的であるかは別のこととして)。ただし、写実さを応用する場合、アカデミズムの傾向は作者が自分の特色を生み出すのに確かに不利である。ところが、こういった制限は一部の台湾の創作者にとって、存在していないのかもしれない。彼らはアカデミズムにある光のコントラスト、色、形状、媒材を研究し、様々に組み合わせることで自分の形を生み出している。私達の時代には、写実技法は、選択肢の中の一つでしかなく、創作する上で私達はまだ数多くの表現を組み合わせていけるからだ。

註1:Lecigne と Tamine の作品『Fac-similé』(複製画)から出された観点。

註2:1996年『High漫画月刊』が休刊する際の序言で、欧米や日本漫画への評価区分を見出した。

註3:1959年辰巳嘉裕らによって結成された劇画工房では社会の現実をベースとしたテーマで、成人向けのストーリーを執筆した。

註4:米沢嘉博が日本の雑誌『ユリイカ』で言及した漫画史の区分。「大友以前、大友以後」は、手塚治虫と比較している。

註5:日本漫画の背景の写実的な手法は、この二十年で発展したものだけではない。古くは紙芝居出身で戦後に発掘された水木しげるも多用した。

註6:ここでのリアルとは造形の精確さが生み出すフォトリアル技法を指す。写実主義とは、主観的な経験や感情のリアルさを、イラストやキャラクターを変化させ誇張することであり、本文の論ずる方向ではない。

原文出自:https://www.creative-comic.tw/special_topics/97