1980年代の台湾は強権体制が揺らぎ、自由の空気が広がり始めていた。国民党が支配する映画制作最大手の中央電影公司(中影)も、「ポリティカルコレクト」な歴史映画に対する需要鈍化、権威主義と民主主義の狭間で曖昧になった審査基準など、大きな試練に直面していた。
中影の社長で元中華民国軍政治作戦少将のミン・ジーは、台湾育ちのウー・ニエンジェンと外国帰りのシャオイエという映画専門ではない2人の文学青年を雇い、改革を進めようとする。情熱に溢れる2人の青年と2人を鼓舞するミン・ジーは何度も組織とぶつかりながらも、多くの新鋭映画監督との提携を進めていく。台湾の映画界に新たな潮流が生まれたこの頃、多くの作品が国際映画祭で賞を獲得する中で、視野の開かれた映画関係者が台湾ニューシネマ運動の旗手となる。
平和だが思想は統制されていたこの時代、理想を抱く多くの人たちが挫折と試練に直面しながらも、長いトンネルの先にある光を求めて生きていた。
1980年のある日、台北市立療養院で働いていた28歳のウー・ニエンジェンのもとに「ミン社長」からの電話が入り、やがて中影に入社する……1979年に海外留学を中断し、台湾に帰ってきてから1年になる29歳のシャオイエは、原稿料の支払いを先延ばしされたことから中影に入社し、ウー・ニエンジェンの同僚となる……
映画、舞台、CMも手掛けるマルチクリエイター。1981年から『恋恋風塵』、『老莫的第二個春天』、『無言的山丘』、『客途秋恨』、『悲情城市』など75本の映画脚本を執筆し、金馬賞最優秀脚本賞を5回、アジア太平洋映画祭の最優秀脚本賞を2回受賞した。父親の物語をアレンジした映画処女作『多桑』はトリノ映画祭で最優秀作品賞などを受賞した。
1970年代以来のロングセラー作家。幅広いジャンルを手掛け、聯合報文学賞大賞など受賞多数。『恐怖分子』でアジア太平洋映画祭の最優秀脚本賞、『我們都是這様長大》で金馬賞の最優秀原作脚本賞を受賞した。「台湾のアカデミー賞」とも称される金馬賞に5度ノミネートされた。1981年に中影に入り、複数の友人と台湾ニューシネマ運動の礎を築いた。